東京地方裁判所 昭和33年(ワ)5512号 判決 1960年5月25日
原告 金山忍
被告 国
主文
被告は原告に対し昭和三〇年一二月一一日以降昭和三五年四月三〇日までの間につき一ケ月金一三、六〇〇円の割合による金員を支払え。
訴訟費用は被告の負担とする。
この判決は仮に執行することができる。
事実
第一、当事者双方の求める裁判
原告訴訟代理人は、主文第一、二項同旨の判決及び仮執行の宣言を求め、被告指定代理人は「原告の請求を棄却する。訴訟費用は原告の負担とする。」との判決を求めた。
第二、請求の原因
一、雇傭関係の成立及び解雇の意思表示
原告は、昭和二七年八月四日いわゆる駐留軍労務者として期間の定なく被告に雇傭され、昭和二九年八月一六日以降は横浜技術廠(以下YEDと称する。)相模本廠のインベントリイ、ブランチに荷扱夫として勤務していたものであるところ、昭和三〇年一二月八日付書面で被告から、原告の雇傭を継続することはアメリカ合衆国軍隊(以下単に「軍」という。)の保安上危険であるとの理由により同月一〇日を以て原告を解雇する旨の意思表示を受けた。
二、解雇の無効
原告に対する右解雇の意思表示は、以下に述べる理由により無効である。
(一) 労務基本契約附属協定第六九号違反
A、本件解雇当時駐留軍労務者の保安解雇に関する基準を規定したものとして施行されていた日米両国政府の締結にかかる労務基本契約(契約番号DA―九二―五〇二―FEC―六七〇三)の附属協定第六九号は、その第一条aにおいて、駐留軍労務者が
(1) 作業妨害行為、牒報、軍機保護のための規則違反又はそのための企画若しくは準備をしたとき
(2) アメリカ合衆国の保安に直接的に有害であると認められる政策を継続的に且つ反覆的に採用し若しくは支持する破壊的団体又は会の構成員であるとき
(3) 前記(1)記載の活動に従事する者又は前記(2)記載の団体若しくは会の構成員とアメリカ合衆国の保安上の利益に反して行動をなすとの結論を正当ならしめる程度まで常習的に或いは密接に連けいしているとき
にこれを保安解雇することができるものと定めている。
B、右協定の規定は被告が駐留軍労務者を保安上の理由に基いて解雇できる場合を前掲事由のあるときにのみ制限したものと解すべきところ、被告は原告が右(2)に該当することを原告に対する保安解雇の理由としたのであるが、原告にはそのような事実はもとより上掲(1)及び(3)に該当する事実も存在しない。したがつて被告が原告に対してした解雇の意思表示は右協定の制限に違反するものとして無効である。
(二) 不当労働行為
A、原告の組合経歴及び組合活動
(1) 原告の組合経歴
原告は、昭和二九年八月一六日YED相模本廠に転勤する以前YED神奈川に勤務していた当時全駐留軍労働組合(以下「全駐労」という。)神奈川地区本部全YED支部書記長に、右転勤後にも、同年一〇月全駐労神奈川地区本部相模支部(以下「全駐労相模支部」という。)委員、昭和三〇年五月同支部委員及び同支部スペアパーツ分会書記長、同年一〇月同支部執行委員にそれぞれ選出された。
(2) 原告の組合活動
(イ) スペアパーツ分会における組合員の獲得
原告がYED相模本廠に転勤後所属していた全駐労相模支部スペアーパーツ分会はインベントリイ、ビン及びシツピング等の職場の労働者の一部によつて組織されていたのであるが、原告は、これら職場における労働組合未加入の労働者を説得して、約五〇名の者を全駐労相模支部に加入させ、従来組織率の極めて低かつたスペアパーツ分会を一躍同支部中最高の組織率を有する分会に成長させた。もつとも、従来労働組合の組合員であることが軍に知れるとそれを理由に圧迫を受けることが多かつたので、原告の説得によつて新たに組合に加入した者の中にも相模原渉外労務管理事務所(以下「労管」という。)にその旨の届出をすることをためらつた者があつたため、全部の者が組合に加入したことを正式に届出たわけではなかつた。
(ロ) インベントリイ・ブランチ職場における「親睦会」の結成及びその職場闘争組織への成長
原告の勤務するインベントリイ・ブランチの職場の監督者である千代田正次から同職場の労務者を会員とする「親睦会」の結成が提案されたことがあつたが、原告は、千代田正次の意図するところが右組織を通じて職場の労働者を支配するにあることを看破し、逆に同会を利用すれば当時全駐労又は日駐労(正式の名称は日本駐留軍労働組合)の組合員といずれの労働組合にも加入していない者とに三分されていた職場の労働者を統一行動に組織できると考えて、千代田正次の意図したところとは全く反対の動機から親睦会の結成に賛成し、積極的にその結成に努力したため、同会の結成後その役員に選出された。そして、原告が当初職場内の親睦を目的として結成された同会を次第に職場闘争の組織としての性格を持つものに変えることに努力した結果、同会は以下に述べるように休憩室獲得闘争、職変闘争等の基盤となつたばかりか、オーバータイム公平化闘争を遂行できるような勢力を備えた統一行動の組織へ発展するに至つたのである。このため千代田正次その他の職制は親睦会からの脱退を申出たくらいであつた。
(ハ) インベントリイ・ブランチ職場における休憩室の獲得闘争
原告は、その所属するインベントリイ・ブランチの職場において親睦会々員の中から提出された休憩室獲得の要求を全駐労相模支部委員として早速採り上げ、千代田正次を通じ軍と交渉して一応約五坪の休憩室を獲得したが、より充実した施設を提供させるため、当時福利施設の充実を一般的に要求していた全駐労から右休憩室の問題について労管に交渉の申入をしてもらう予定にしていた折柄、日駐労でも労管に対し同じ要求を出そうとしている動きのあることを知つた全駐労は、日駐労との摩擦を避けるとともに両者の統一行動によつて目的の達成を図る意味から日駐労を表面に立ててこれを実質的に支援する方針をとつたので、日駐労からのみ文書により労管に対して休憩室要求の申入れがなされるに至つたのである。この間原告は、全駐労に働きかけて日駐労との統一行動の推進に努力する等、昭和二九年一二月から同三〇年七月までの長期に亘つた休憩室獲得闘争の中核となつて活躍した。
(ニ) インベントリイ・ブランチ職場における職変闘争
原告の所属するインベントリイ・ブランチの職場には検数員(チエツカー)及び荷扱夫(カーゴ・ハンドラー)の二つの職種があり、給与の面においては前者が後者より好遇されていたところ、同職場における荷扱夫のうち八名は実質的には検数員の仕事に従事していたので、軍もかねてその職種を検数員に変更することを約していた。しかるにその約束がなかなか履行されないので、職場の中に不満がみなぎつていた。原告は、職場討議に基いて、その実現を図るため自ら職制や軍の給与課と交渉する一方、全駐労相模支部をして労管に交渉をさせた。
原告は労管との交渉に当つて正式の交渉員にはならなかつたのであるが、従来から全駐労と労管との団体交渉においては慣行として組合側より正規の交渉員のほかに交渉事項に関係のある分会の責任者が交渉に参加することが労管によつて認められていたのであつて、原告もこの慣行にしたがつて前記職変闘争のための労管との交渉に出席したのである。かように原告は、闘争の中心の職場の指導者として昭和二九年一〇月から同三〇年四月に亘る長期の闘争において活躍し、全員の職種変更を成功させたのである。
(ホ) インベントリイ・ブランチ職場におけるオーバータイム公平化闘争
原告の勤務するインベントリイ・ブランチの職場においては、職制の千代田正次がオーバータイム労働(土曜日出勤)を行わせる者を指名するについて偏頗な取扱をする傾向があつたため、オーバータイム手当の収入において約金四、〇〇〇円程度の不均衡を生じ、かねがね不満を買つていた。
原告は、職場におけるこの不満を取り上げ、職場討議の結果に基いて過去のデータを自ら調査した上職制を通じオーバータイム労働に服すべき労働者の指名の公平化を軍に要求し、昭和二九年一二月から同三〇年四月に亘る闘争ののちその目的を達成した。
(ヘ) ビン職場における職制追放闘争
全駐労相模支部スペアパーツ分会所管のビン職場には、インベントリイ・ブランチ職場の親睦会と同様の目的を有する「ビン友会」と称する親睦団体があつたが、ビン友会の会員らは日頃からビン職場の日本人職制である河野某の専制的な態度に反感を抱いていた。ところが偶々同人が会員の旅行積立金を横領した事実を発見して会員は、同人に対する平素の憤満を爆発させ、同人に対する職場からの追放運動を展開することを決議するに至つた。原告は、スペアパーツ分会書記長として、数回に亘つて分会委員会を開催してその対策を協議するほか、職場懇話会或いは職場大会を開催するなどしてビン友会員の前記運動を積極的に指導及び援助し、昭和三〇年五月末遂に成果を挙げることができた。
(ト) スペアパーツ・デビジヨンにおける職変闘争
原告は、スペアパーツ分会書記長として前記(ニ)の職変闘争の経験を生かし、昭和三〇年四月頃スペアパーツ・デビジヨンのシツピング職場における労働者からの要求にかかる職種変更問題を分会委員会で検討し、調査の結果に基いて全駐労相模支部と労管との団体交渉により同年七月三一名の職種変更を実現させた。
(チ) 文化情宣活動
原告は、日常の文化情宣活動に極めて熱心に従事し、全駐労神奈川地区本部、同支部及びその文化部の機関紙等の配付、映画愛好会への入会勧誘に当つたのみならず、職場の労働者に対し機会あるごとに組合の方針や闘争の現況等を説明し、組織の強化拡大に努力した。
(リ) その他組合幹部としての活動
原告は、全駐労相模支部委員及びそのスペアパーツ分会書記長としてシツピング職場のロツカールーム獲得闘争及び昭和三〇年七、八月に行われたボイラーマン首切り反対闘争を指導したほか、後述するように全駐労神奈川地区本部及びその相模支部の指令に従つて、世界平和愛好者会議に神奈川県代表を派遣するための資金カンパ運動に当つた。
B、原告の組合活動に対する軍の態度及び原告に対する解雇の経緯
(1) 軍は、原告が以上のように積極的に組合活動にたずさわつていることを常々嫌悪し、原告を解雇しようとその機会を窺つていた。
軍は、昭和三〇年六月一〇日原告が全駐労神奈川地区本部及びその相模支部の指令に基き、ヘルシンキで開催される世界平和愛好者会議に神奈川県代表を送るための資金カンパ運動を行うため所持していた資金カンパ用紙を押収した。当時右カンパ用紙を所持していた労働者は他にもいたのであるが、軍は、ひとり原告からのみこれを押収した上、かかるものを職場内に持ち込むことは軍の指令に違反するとして、労管に原告の解雇を要求した。しかし全駐労及び相模原平和懇談会の強硬な抗議を受けたので、軍は、一応右解雇要求を撤回したが、その後右用紙持込みを理由に原告を譴責処分に付したのみならず、更に同年一〇月一八日原告の所属する職場における軍の責任者は、右と同一の理由に合わせて事実無根の二つの事由を具して軍の人事課に原告の解雇要求手続を上申したのであるが、さすがに人事課はこれを理由のないものとして却下した。
(2) 原告は、先にも述べたとおり昭和三〇年一〇月全駐労相模支部執行委員に三度選出されたのであるが、新たに支部の職変闘争が組織され、更に同年一一月二五日に行われた人員整理に対する反対闘争及び年末手当獲得闘争が開始されようとする矢先同月二八日に被告から出勤停止を命ぜられ、引き続き上述のように解雇の意思表示を受けたのである。
C、不当労働行為の成立
以上のような諸般の事情を考え合わせると、原告に対する解雇は、形式的には保安上の危険を理由とするものではあるが、前述のような組合活動に従事した原告を職場から排除しようとした軍の意図の現われであることが明白であるから、不当労働行為として無効であるといわなければならない。
三、賃金請求
被告は、原告に対する解雇の意思表示が無効であるのに昭和三〇年一二月一一日以降原告より労務の提供を受領することを拒んで賃金の支払をしないのであるが、解雇前原告に対しては毎月一〇日に金一三、六〇〇円の賃金が支払われていた。よつて原告は、被告に対し本訴により、前示解雇の意思表示がその効力を発生したものといわれる日の翌日に当る昭和三〇年一二月一一日以降の賃金の支払を請求する。
第三、答弁
一、請求の原因一について
原告主張事実を認める。
二、請求の原因二について
原告に対する解雇の意思表示が無効であるとの主張は争う。
(一) 労務基本契約附属協定第六九号違反に関する主張中Aの事実と原告が右附属協定第一条aの(2)に該当するものとして解雇の意思表示を受けたことは認める。
被告の行政機関である調達庁長官は、昭和三〇年九月二八日米軍司令官から原告が右協定第一条aの(2)の該当者ではないかとの点に関し意見を要請されたのに対して、同年一〇月一三日、原告はかつて特定団体の福岡県における特定地域の単位組織の責任者であつたが、現在においては右協定の条項に該当するということについての決定的な資料は発見できない旨を回答したにもかかわらず、同年一一月二四日米軍司令官から原告を解雇すべきであるとの要求を受けたので、同月二八日一旦原告の出勤を停止させた上原告主張のとおり原告に対し解雇の意思表示をしたのである。
ところで使用者が労働者を解雇するにはその理由が正当なものであることを必要としないのであるから、右のような経過による原告に対する解雇の意思表示が無効であるいわれはない。
(二) 原告に対する解雇が不当労働行為を構成することは否認する。
A(1) 原告の組合経歴に関する主張事実中原告がYED相模本廠に転勤する以前YED神奈川に勤務していたことは認めるが、その余の事実は知らない。
(2) 原告の組合活動に関する主張に対しては左のとおり答弁する。
(イ) 原告の主張するように原告の説得により全駐労相模支部スペアパーツ分会において組合員が増加したことは否認する。
(ロ) インベントリイ・ブランチの職場の労働者が原告主張のように三分されていたこと及び同職場に「親睦会」という団体が組織されたことは認める。しかし、親睦会は同職場のマネージヤーである千代田正次の提唱によつて会員のための旅行及び慶弔資金の醵出、茶会の開催その他専ら職場内の親睦を図る目的の下に昭和二九年九月乃至は一一月頃結成されたものであつて、決して原告のいうように原告の努力によつて結成されたものでも、その組織の性格に変更があつたものでもないのである。
(ハ) 日駐労からの文書による申出に基いて労管が軍に交渉した結果インベントリイ・ブランチの労働者のための休憩室が設けられたことは認める。その設置の時期は昭和三〇年一〇月頃であるが、原告はこれには全く関係するところがなかつたのである。
(ニ) 荷扱夫(カーゴ・ハンドラー)から検数員(チエツカー)への職種変更による昇格問題について労管と全駐労相模支部との間に団体交渉が行われたことは認める。その団体交渉は二回に亘つたのであるが、原告は昭和二九年一二月の二〇日の第一回団体交渉に単なる傍聴人として出席したに過ぎなかつた。
(ホ) 原告がその主張のようにオーバータイム公平化闘争に関係したことは知らない。
(ヘ) ビン職場の職制であつた河野某がその保管にかかる「ビン友会」会員の旅行積立金を横領したため右職場から追放されたことは認めるが、同人の専制的な態度がその追放の気運を醸成したこと及び原告がビン友会会員の河野某に対する追放運動を指導したことは否認する。
(ト) 原告がスペアパーツ・デビジヨンにおける職変闘争に関与したことは否認する。
(チ) 原告がその主張のような文化情宣活動に従事したことは知らないが、一般に労働組合の機関紙の配付その他の日常的文化活動には組合員が交替で当るのが普通であつて、特定の組合員が専門にこれを担当するというようなことはなく、殊に原告が勤務していたYED相模本廠のように労働者が出退勤時に出入する門の数が多いところでは大勢で手分けして右のような活動を行うのが常態である。
(リ) 原告がその他組合幹部としてその主張のような活動を行つたことは否認する。もつとも昭和三〇年七、八月頃ボイラーマン首切り反対闘争について労管が団体交渉に応じたことはあるが、原告はこれに出席さえもしなかつた。
B (1) 原告がその主張の資金カンパ運動に関して譴責処分を受けた経緯は次のとおりであつて、この点に関する原告の主張は著しく真相に反する。軍は、世界平和愛好者会議に神奈川県代表を送るための資金カンパの用紙を、軍の許可なく作業時間中(午後四時頃)に職場内に持ち込んだ日本人労務者(女性)があつたので、事情を究明したところ、原告の依頼によるものであることが判明したので、軍の指令に違反する行為をしたものとして、原告に対し解雇の手続をとる意思のあることを告げたのである。
しかし、この資金カンパ運動は相模原市長も関係している団体の主催するものであつた上、原告にとつては基地内で起した始めての問題でもあつたこと等の情状に鑑みて原告に対し直ちに解雇の処置に出ることは苛酷に失するとして相模原市長や原告の所属する労働組合から穏便な取扱をなされたい旨の懇請があつたため、軍は、原告を譴責処分に付するに止めたのである。
なお、原告の主張するように軍の人事課に対して原告の解雇要求手続が上申され、これが理由のないものとして却下されたことは知らない。
(2) 昭和三〇年一一月二五日に軍から人員整理要求が出されたこと、同月二八日に原告が出勤を停止されたこと、同年一二月八日附書面により同月一〇日限り原告が解雇されたことは認めるが、同年一〇月二三日に原告が全駐労相模支部執行委員に選出されたこと並びに当時同支部の職変闘争が組織されれ、更に原告主張のような人員整理に対する反対闘争及び年末手当獲得闘争が開始されようとしていたことは知らない。
C、叙上の如く、原告は組合運動の表面に立つて特に注目をひくような積極的な活動を行なつたことはなく、他の組合員に比しその組合活動は低調であつたのであるから、原告がその組合活動の故に解雇されたものでないことは極めて明白である。
三、原告に対しその解雇当時まで毎月一〇日に金一三、六〇〇円の賃金が支払われていたことは認める。原告と被告との間の雇傭関係は解雇により昭和三〇年一二月一〇日限り消滅したものであるから、爾後被告は原告に対し賃金を支払う義務を負うものではない。
第四、証拠関係<省略>
理由
第一、原、被告間の雇傭関係の成立及び被告から原告に対する解雇の意思表示
この点に関する請求の原因一の事実については、当事者間に争がない。
第二、原告に対する解雇の意思表示の効力
一、まず右解雇の意思表示が労務基本契約附属協定第六九号に違反するものとして無効であるという原告の主張について考える。
原告に対して被告から解雇の意思表示がなされた当時、いわゆる間接雇傭の駐留軍労務者を軍の保安上の理由により解雇する場合の基準に関し、日米両国政府間に締結された労務基本契約(契約番号DA―九二―五〇二―FEC―六七〇三)の附属協定第六九号第一条aにおいて原告の主張するような規定がなされていたこと及び原告に対する解雇がその(2)に掲げる場合、即ち原告がアメリカ合衆国の保安に直接的に有害であると認められる政策を継続的に且つ反覆的に採用し若しくは支持する破壊的団体又は会の構成員であるときに該当することを理由としたものであつたことは、当事者間に争がない。
原告は、前記附属協定が前述のようにいわゆる保安解雇の基準を定めたのは被告がその雇傭する駐留軍労務者を保安上の理由に基いて解雇することができる場合を所定の事由のあるときにのみ限定して解雇権を制限したものと解すべきところ、原告にはかかる基準のいずれも該当する事実がなかつたのであるから、被告が原告に対してした保安解雇の意思表示は同協定による解雇権の制限に違反するものとして無効であると主張する。
成立に争のない乙第五号証及び証人平川国雄の証言によると、軍が被告において雇傭して軍の労務に服させるため軍に提供した日本人労務者を保安上危険であるとの理由により解雇するのが正当であると認めた場合には、日本政府の機関にその旨通知して意見を徴するものではあるけれども、保安解雇の基準に該当する事実の存否に関する認定の最終決定権は軍に保留されていて、被告は、駐留軍労務者を保安解雇すべきものとする軍の判断に同意しない場合においても、当該労務者に対し保安解雇の手続をとらなければならないことに、労務基本契約及びその附属協定上規定されていることが認められるところからすると、労務基本契約及びその附属協定によつて被告は、軍が保安解雇を要求した駐留軍労務者については必ず解雇の措置をとるべきことを軍に対して約したものであつて、保安解雇の基準に該当する客観的事実が存在するものと自ら判断した場合に限つて当該労務者に対し保安解雇の権利を行使できるに過ぎないものとされているのではない。ところで証人平川国雄の証言によると、被告が原告に対して保安解雇の意思表示をしたのは、米極東陸軍第八軍司令官から労務基本契約及びその附属協定所定の手続をふんで原告に前記附属協定第一条aの(2)に掲げる基準に該当する事実があるとして被告に対し原告の解雇要求があつたことに基いたものであることが認められるのであるから、仮に原告に右のような保安解雇の基準に該当する客観的事実が存在しなかつたとしても、そのために被告の原告に対する解雇の意思表示が原告の主張する如く労務基本契約の附属協定に違反するとの理由で無効であるということはできないのである。
二、そこでつぎに原告の主張するように右解雇の意思表示が不当労働行為に当るものとして無効とみられるべきものであるかどうかについて判断する。
叙上のとおり、被告がその雇傭する駐留軍労務者に対してした保安解雇の意思表示は、その解雇基準に該当する事実が客観的に実在しなかつたこと自体によつては無効となるものではないけれども、日本国とアメリカ合衆国との間の安全保障条約第三条に基く行政協定第一二条第五項及び第一五条第四項の規定によれば、駐留軍労務者の労働関係については日本国の法令の定めるところによることになつているのであるから、駐留軍労務者に対する保安解雇についても労働組合法第七条所定の不当労働行為の成否を論ずる余地が残されていることは、疑いのないところである。以下本件についてその点を審究する。
(一) 原告の組合経歴及び組合活動
(1) 原告の組合経歴
証人今野吉五郎、同内田孔夫、同内藤巍の各証言及び原告本人の尋問の結果によれば、原告は、駐留軍労務者として昭和二七年八月以降YED神奈川に勤務していた当時から全駐労に加入していたのであるが、昭和二八年四月全駐労神奈川地区本部全YED支部執行委員に選出されて教宣部長となり、ついで昭和二九年四月には同支部書記長に選出され、昭和二九年八月一六日YED相模本廠に転勤となつた(この事実は当事者間に争がない。)後においては、全駐労相模支部委員及び同執行委員のほか、同支部スペアパーツ分会書記長などの役職に就いていたことが認められる。
(2) 原告の行つた組合活動
(イ) 原告は、YED相模本廠に転勤後その所属のスペアパーツ・デビジヨンにおける非組合員約五〇名を説得して全駐労相模支部スペアパーツ分会に加入させたと主張し、証人今野吉五郎、同内田孔夫の各証言中にはこれに副う趣旨のものがみられるのであるが、証人土屋鉄彦の証言によると、労管は、全駐労からの要請に基いて、全駐労に所属する駐留軍労務者に毎月支払う賃金より組合費の源泉徴収を行つており、そのために組合費の源泉徴収を受けるべき組合員の氏名が全駐労から労管に届出られて来たことが認められるところ、成立に争のない乙第六号証によれば、労管が全駐労相模支部スペアパーツ、ストレーヂ分会所属の組合員から新たに組合費の源泉控除を始めた者が昭和二九年八月分から四八名、九月分から八名、一〇月分から一一名、一一月分から二名、以上合計六九名増加したところ、このうちYED神奈川からの転入者が八月分につき三三名、九月及び一〇月分につき各三名、一一月分につき一名、以上合計四〇名あることが認められる。しかしながら右の四〇名の中にはもともとYED神奈川に在職当時から全駐労の組合員であつた者も含まれていたのではないかと考えられる上、右認定によつて明らかなとおり労管が叙上のように組合費の源泉控除を新規に開始するようになつた組合員数の増加が最も多いのは昭和二九年七月から八月にかけてであるところ、原告がYED相模本廠に転勤したのは同年八月一六日のことであることが当事者間に争のないところであり、しかも証人内藤巍の証言によれば、原告は右転勤後暫らくの間全駐労全YED支部の書記長としての残務の整理にたずさわつていたことが、更に前顕乙第六号証によれば、労管が全駐労相模支部所属の組合員として原告につき組合費の源泉控除を行うようになつたのは同年一二月分の賃金からであつたことがそれぞれ認められる。叙上諸般の情況からするときは、原告の説得によつて全駐労相模支部スペアパーツ分会の組合員が軍の注目をひく程に増加したものとは考えられないのであつて、前掲証人今野吉五郎、同内田孔夫の各証言は採用できない。
(ロ) 証人今野吉五郎、同須藤順、同内田孔夫、同千代田正次の各証言及び原告本人の尋問の結果(但し、これら証拠中後掲措信しない部分を除く。)を綜合すれば、(1)昭和二九年一二月頃原告の勤務していたYED相模本廠のスペアーツ・デビジヨンにおけるインベントリイ・ブランチ職場のマネージヤーである千代田正次の発意により、右職場に働く日本人労務者を会員とする「親睦会」と称する会を作り、その会費をもつて茶代や慶弔金の支出に充てるほか、野球試合、囲碁将棋会及び旅行会を開催する等会員相互の親睦を図ろうとする気運が高まつたこと、(2)ところが当時右職場の日本人従業員は全駐労又は日駐労に加入している者といずれの労働組合にも属しない未組織労働者とに三分されていて、従業員の労働条件の改善その他経済的地位の向上を図るための統一的行動をとりえない実情にあつたのに鑑み、全駐労相模支部は、この親睦会組織による会員相互のつながりを通じてその活動を強化できるとの考慮から、当時前記職場に勤務し同支部の役員をしていた原告をして新睦会の結成に協力させ、且つ、これが促進に当らせたこと、(3)原告はかくして親睦会結成のための発起人に加わり、会員の獲得や規約の作成に尽力したこと、(4)親睦会が結成されると、原告は書記に、千代田正次は顧問に選任されたこと、(5)原告は、その職場における日本人労務者の不平不満は親睦会においても取上げ、その解決に努力すべきであると主張し、後述する休憩室及びロツカールーム獲得闘争、職種変更闘争及びオーバータイム公平化闘争はすべて原告が提案して親睦会にも取上げさせたものであること(6)原告のこのような行き方について千代田正次は親睦会の目的を逸脱するものであるとして反対を続けたのであるが、親睦会がオーバータイム公平化闘争を推進しようとしたのに対して千代田正次が反対したことを機縁として親睦会が臨時総会を開いて、千代田正次の態度を批判し、このような職場の不平不満は会としても取上げるべきであるとの決議がなされたこと、(7)千代田正次はかように親睦会の運営が自らの期待に反したところから、遂に退会の意思を表明するに至つたことが認められる。上掲各証拠中右認定に反する部分は措信できない。
右認定事実に徴するときは、原告が親睦会の書記として行つた行動が組合活動の一面を持つていたことは否定しがたいところである。
(ハ) 成立に争のない甲第二号証、証人今野吉五郎、同須藤順、同内田孔夫、同内藤巍、同土屋鉄彦、同千代田正次の各証言によれば、インベントリイ・ブランチ職場の休憩室は、もともとYED相模本廠において軍の仕事を下請していた相模工業株式会社が使用中の施設の片隅に設けられていたのであるが、YED神奈川から多数の駐留軍労務者が転入して来たため昭和二九年一〇月頃から非常に手狭となり、暖い日には軒下で食事をする者もあるという状態であつたのみならず、労務者の更衣を入れるためのロツカーの如きも便所の中に置かれていたという有様であつたので、原告は、日本人労務者用の休憩室、ロツカールーム、食堂の設置を軍に要求するため、前記職場の全従業員が力を合せるように呼びかけるとともに、親睦会の役員会にもこの問題を提案し、他方全駐労相模支部としても労管に対しその要求をする等のこともあつたが、結局は原告も自認するとおり、日駐労が運動の表面に立つて昭和二九年の年末頃から労管と団体交渉を重ねた結果昭和三〇年中に問題の解決をみるに至つたことが認められる。
(ニ) 成立に争のない甲第一号証、証人今野吉五郎、同須藤順、同内藤巍、同千代田正次の各証言(但し、証人千代田正次の証言中後記措信しない部分を除く。)及び原告本人の尋問の結果を綜合すれば、YED相模本廠の軍当局は昭和二九年七月頃インベントリイ・ブランチにおいて従来相模工業株式会社の従業員が行つていた検数の仕事を担当させるため、同職場の荷扱夫(カーゴ・ハンドラー)から八名を六〇日の試験期間経過後検数員(チエツカー)に職種変更して、これらの者に対し五号給を支給すべきことを約していたのに、その実行が延々になつたばかりか、これらの者を一挙に五号給に格付けるのは昇給の幅が広すぎるとの上級司令部からの注意に基いて昇給の範囲が狭められようとしたので、全駐労相模支部は同年一二月頃から労管との団体交渉において軍の当初の約束どおり右の職種変更を速かに実現に移すよう要求したのであるが、原告は既にその前からこの問題を取上げて親睦会の役員会に付議するほか、資料を蒐集して千代田正次や軍の給与課と折衝し、全駐労相模支部と労管との団体交渉にも出席したことがあり(原告がこの団体交渉に労働組合側の委員の資格で出席したこと及びその席上で積極的に発言したことを認めるに足りる証拠はない。)、結局組合の要求するとおり全員を五号給に格付けさせることには成功しなかつたものの、労働者側でもほぼ満足する条件で全員の職種変更が行われるに至つたことが認められる。証人千代田正次の証言中右認定に牴触する部分は措信しない。
(ホ) 証人今野吉五郎、同須藤順、同千代田正次の各証言(但し、証人千代田正次の証言中後記措信しない部分を除く。)及び原告本人の尋問の結果を綜合すると、インベントリイ・ブランチ職場においては、昭和二九年一二月頃から職制である千代田正次の指名する日本人労務者が土曜日に出勤してオーバータイム労働に服することが続いていたのであるが、その指名が特定の者にかたより勝ちであつたため、職場の中に次第に不平不満がみなぎつて来たので、原告は、このオーバータイムに関する統計をとつて千代田正次の不公平な取扱振りについて職場の日本人従業員の注意を喚起するとともに、親睦会でもこの問題を論議させ、千代田正次にその是正方につき折衝した結果、昭和三〇年三、四月頃から従来のような偏頗な指名が改められるようになつたことが認められる。証人千代田正次の証言中右認定に反する部分は措信しない。
(ヘ) 原告の勤務していたインベントリイ・ブランチと同じくスペアパーツ・デビジヨンに所属するビン職場の「ビン友会」(この会がビン職場に勤務する日本人労務者の組織する親睦会であることは、被告の明らかに争わないところである。)の会員が積み立てた旅行会の費用の保管の衝に当つていた同職場の職制の河野某が擅にこれを費消したため、ビン友会員の要求により職場から追放されるに至つたことは、当事者間に争がないところ、証人内田孔夫、千代田正次の各証言(但し、証人千代田正次の証言中後掲措信しない部分を除く。)及び原告本人の尋問の結果によれば、河野某はその職場に働く日本人従業員を私用に使つたりすることなどがあつてかねて評判が悪かつた折柄、前記のとおりビン友会の旅行積立金の費消問題が発生したのを機会に、日本人労務者の憤激を買い、同人をビン職場から排斥すべしとする気運が高まつたこと、全駐労相模支部においても、ビン友会の内部問題として組合でこれを取上げるべきではないとしつつも、側面的にビン友会員の右排斥運動を支援する方針の下に、当時スペアパーツ分会の書記長であつた原告及び同じくその委員長でビン職場の従業員であつた中島某をしてビン友会員に働きかけてその総会において河野某のビン職場からの追放を要求する決議をなさせるに至り、結局その追放が実現したものであることが認められ、右認定に反する証人千代田正次の証言部分は採用しない。
(ト) 証人内藤巍の証言及び原告本人の尋問の結果によれば、昭和三〇年中にスペアパーツ・デビジヨンにおいて日本人従業員が実際に担当している職務内容とその職種が一致していないことから職種を実際の職務内容にふさわしいものに変更せよとの要求が起つた際、原告はスペアパーツ分会書記長として分会委員会や労管との団体交渉に出席したことがあることが認められる。
(チ) 証人今野吉五郎、同須藤順、同内藤巍の各証言によれば、原告は常々その所属する労働組合の組合員に対して組合機関紙、パンフレツト及びビラ等の配付に当るのはもとより、日駐労の組合員や職場の未組織労働者に対しても全駐労の活動の状況等を説明して労働者意職の高揚及び啓発に努める等情宣活動に熱心であつたことが認められる。
(リ) 弁論の全趣旨により真正に成立したものと認める乙第二号証乃至乙第四号証、証人内藤巍、同土屋鉄彦の各証言によれば、原告は昭和三〇年八月中にボイラーマンの人員整理問題について全駐労相模支部と労管との間に開かれた団体交渉に出席したこと(但し、特に発言をする等のことはなかつた。)が認められる。
叙上(ハ)乃至(リ)に判示した原告の行動がいわゆる正当な組合活動とみられるべきものであることは論のないところであるが、(ロ)に判示したインベントリイ・ブランチ職場における親睦会の結成に関する原告の行動自体が組合活動に当らないことは明らかであり、又親睦会の運営について原告の行つた行動は、原告の所属する労働組合の目的の達成のためにするものと認められる限りにおいてのみ組合活動となるものと解すべきであるところ、この意味において原告の組合活動と認めるべきものが前記(ハ)、(ニ)及び(ホ)に判示する原告の行動の一環として行われたことは、前示認定に徴して明白である。
更に証人今野吉五郎、同内藤巍、同千代田正次の各証言及び原告本人の尋問の結果を綜合すると、昭和三〇年五月初旬頃、総評、全駐労中央執行委員会でそれぞれヘルシンキにおいて開催される世界平和愛好者会議に日本代表を派遣することに協力する方針が決定され、これに応じて全駐労神奈川地区本部及び同相模支部の各執行委員会では神奈川県からの代表に菊池みつを送るための資金カンパを行なうことが決定されたところから、原告もその職場等において右の募金運動に従事していたが、偶々同年六月一〇日原告がその職場の女子事務員桑原けい子に依頼して、軍の許可なく作業時間中に右資金カンパを行なわせたことが軍に発覚し、軍の指令に違反するとして、桑原けい子の所持していたカンパに応じた者の署名を取つた書類が軍に押収されたことが認められる。
ところで労働組合が政治活動又は社会運動を行うことは必ずしも禁ぜられるものではないから、原告がその所属する労働組合の機関決定に基いて行つた前述の資金カンパ活動は組合運動に属するものと認めるに支障はないものというべきである。
そして証人内藤巍、同土屋鉄彦の各証言及び原告本人の尋問の結果を綜合すると、上述のとおり桑原けい子の所持していた資金カンパに関する書類が軍に押収されたことについて事態を憂慮した全駐労相模支部では、前記資金カンパ運動に関係していた相模原平和懇談会に連絡を取り事件発生の翌日の昭和三〇年六月一一日には右会の会長である相模原市長が不在のため同市助役とともに、翌々一三日には同市長とともに軍の保安課の責任者及び労務連絡士官に面会して、右事件について軍と交渉したところ、押収した書類は返還するけれども軍としては事件の責任者である原告の解雇を要求する意思のある旨の言明があつたけれども労管所長の懇請もあつて結局原告を譴責することで落着したこと、しかるにその後同年一〇月頃原告の勤務するインベントリイ・ブランチ職場の責任者であるタケツト軍曹から、原告が前述のように軍の指令に違反して資金カンパ運動を行つたことをその他の事由とともに理由として軍の人事課に原告に対する解雇要求の申請書が提出されたが、人事課は解雇には値しないものとして右申請書を差戻したことが認められる。
してみると原告が先に認定したとおり、その就業時間中に軍の許可を受けないで、桑原けい子を介して資金カンパ活動をしたことは、抽象的に論ずれば組合活動として正当なものであるとはいえないであろうけれども、叙上の如く譴責処分によつて一応その責任追及が終つていること及び右組合活動を原告に対する解雇の理由とすることを軍の人事課が承認しなかつた事情から考えるときは、原告に対する解雇に関して不当労働行為の成否を論ずるについて、原告の前記資金カンパ運動をもつて労働組合の正当な行為に該当しないものとして不当労働行為の成立を否定する契機とすることはできないものというべきである。
(二) 不当労働行為の成立
右に判示したような原告の資金カンパ運動が軍に発覚してから以後軍が原告に対して採つた態度及び措置だけから考ても、更に又証人内田孔夫の証言によれば、YED相模本廠における日本人の職制はその職場内における労働組合の闘争情況を逐一軍側に通報していたことが原告本人の尋問の結果によれば、昭和三〇年四月頃原告の職場の監督である千代田正次が他の日本人職制と原告を職場から追放する方法はないものかと相談し合つていた形跡のあつたことが、証人今野吉五郎、同内田孔夫の各証言及び原告本人の尋問の結果によれば、昭和三〇年九月頃YED相模本廠において行われたストライキに際して原告が基地の正門附近で教宣活動に従事しているところを軍の広報課の軍人が写真に撮影したこともあり、又、同じような機会にそこを通り掛つたクシダ軍曹が原告に対し「今に面白いことが起るぞ」と捨てぜりふを残して立去つたこともあつたほか、原告がその職場で使用保管しているチエツカー・ボードを軍人が特にその必要があるとも思われないのに検閲して、そこに挾んだ書類の中に日本人労務者の氏名を記載した紙片があるのを発見してうるさく問いただしたこともあつたことが認められることからしても、原告の勤務していた現地部隊では、先に認定したような組合活動を行つた原告を好ましからず思つていたものと認めるのが相当である。
ところが証人平川国雄、同土屋鉄彦の各証言によると、被告が原告に対して解雇の意思表示をするに至つたのは、原告の勤務していた現地部隊の上級司令部から直接被告の行政機関である調達庁に対して、原告に日米労務基本契約附属協定第六九号第一条aの(2)に該当する保安上の危険があるとして意見を求めて来たことにその端を発したものであつて、調達庁では、昭和三〇年一〇月一三日、原告はかつて昭和二三年一〇月頃当時福岡県春日郡において右附属協定第一条aの(2)にいわゆる破壊的団体の下部組織の責任者として活動していたことがあつたけれども、現在(昭和三〇年一〇月当時)においては原告に保安解雇の基準に該当する事実のあることを認めるに足りる決定的な資料を発見できない旨の意見を提出したのであるが、軍より原告に対する保安解雇の要求がなされたために、被告から原告に対してその意思表示をするに至つたことが認められるのである。そして前出乙第五号証によると、日本に駐留するアメリカ合衆国の陸軍のため労務に服する日本人労働者に対する保安解雇に関する最終決定は、アメリカ極東陸軍司令官がアメリカ軍の将校及び軍属から任命する四人の委員によつて構成される保安解雇審査委員会の諮問を経て行うものであつて、右委員会は、審査に当つて、当該事件の本人に関する労務基本契約附属協定第六九号第一条aに規定されている基準に密接又は直接に関係のある情報のみを考慮し、本人の組合活動又はアメリカ合衆国の保安に関係のない他の事項は斟酌しない建前になつていることが認めるけれども、駐留軍労務者に対する保安解雇の実質的決定権者である軍司令官がその決定をするに当つて絶対に不当労働行為の意思を持ちえないということについて制度的保障その他の根拠の存することを認めるに足りる証拠がないのみならず、殊に本件の事例の場合におけるように、原告の組合活動をその勤務先の現地部隊が極度に嫌つていた事情の存したことが認められ、しかもその上級司令部が現地部隊とは全然無関係に、被告に対して原告の保安解雇を要求することを決定したという特段の事情のあつたことについて何らの立証もなされていない以上、原告の保安解雇を被告に対して要求した軍当局に絶対に不当労働行為の意思がなかつたものとは断定しえないのである。更に原告に対する保安解雇の基準とされた前記附属協定第一条aの(2)に該当する具体的な事実が本件において被告より証明されるところがないことを合せて考えるときは、被告から原告に対して解雇の意思表示がなされるに至つた決定的な理由は、軍が原告の組合活動を嫌悪し、原告をその職場から排除しようとした点にあるものと推認するのが相当であり、上述のとおり駐留軍労務者の保安解雇が最終的には軍当局の決するところに委ねられているものであるからには、右のような意図に基く軍の要求により被告から原告に対してなされた解雇の意思表示は労働組合法第七条第一号に牴触し、労使関係の公序に違反するものとして無効であるといわなければならない。
第三、原告の被告に対する賃金請求権
叙上のとおり被告が原告に対してした解雇の意思表示が不当労働行為に当るものとして無効である以上、原、被告間には昭和三〇年一二月一〇日以降においても依然として雇傭関係が存続しているものというべきところ、右解雇の意思表示のなされる前には原告に対し被告から毎月一〇日に金一三、六〇〇円の賃金が支払われていたことが当事者間に争がないので、原告は、被告において原被告間の雇傭関係が消滅したと主張する昭和三〇年一二月一〇日の翌日以降の賃金の支払を被告に対して請求する権利を有するものというべきである。
第四、結論
よつて原告の請求は理由があるからこれを認容することとし、訴訟費用の負担につき民事訴訟法第八九条を、仮執行の宣言につき同法第一九六条をそれぞれ適用して主文のとおり判決する。
(裁判官 桑原正憲 大塚正夫 半谷恭一)